記者の眼記者の眼

第353回 (2026年7月1日)

 能登半島地震で半壊した実家の修復が終わり、ゴールデンウィークに2年近くぶりに帰省した。縁側の隅に「TAMPA」と刺繍された帽子が掛かっていた。父に聞くと、入港の記念品だという。昨年リムに入社した私は、レポートに登場する米国の港「タンパ」が、この「TAMPA」なのだとやっと気づいた。

 

 今では毎日畑仕事に精を出す父だが、かつては外航船員だった。ペルシャ湾を航海していたころについて聞くと、ナフサ船では爆発を防ぐため、熱を持つ甲板に水をまき続け、タンカーではタンク内を不活性ガスで満たして運搬していたといった話をいろいろ聞いた。当時、父に会えたのは年に2カ月ほどだった。

 

 米国とイランの戦争を巡る報道を通じ、日本人船員の少なさに気が付いた人も多かったのではないだろうか。父によると、1985年ごろから、円高や便宜置籍船の増加を背景に日本人船員は急減したという。1994年ごろ、横浜に寄港した父の船を訪ねると、フィリピン人船員たちが迎えてくれた。日本人は船長の父一人だけだった。父が「やっと日本語が話せる」と喜んだ姿を覚えている。

 

 ネットが普及し、船舶自動識別装置(AIS)で船の位置が確認できる時代になっても、戦争となれば家族の不安は消えない。幼いころは、乗船に向かう父の足元にすがりつき、帰宅した日は飛びついて喜んだ。自分が幼い子を育てる今、子供を残して乗船した父の気持ちが、やっと想像できるようになった。ホルムズ海峡に足止めされた各国の船員たちが、一日も早く大切な人のもとへ帰れることを願っている。

  

(松本)

 

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