第300回 (2025年6月11日)
ジブリ映画『君たちはどう生きるか』を観た。登場するアオサギが「すべてのアオサギは嘘つきだ」と騒ぐ場面があった。これが真実なら、このアオサギは噓つきではないことになり発言と矛盾する。いわゆるクレタ人のパラドックスだ。「これは自己言及がもたらす論理的な限界と...」などと言いたいわけではない。1つでも真実を述べたら嘘つきではないということは、ここでの嘘つきは「嘘しかつかない人」ということになろう。とても興味深い人物だが、それは可能か。
まず、同一人物に対する嘘は全体として整合的でなければならず、過去についた嘘と矛盾する嘘は論外だ。状況の変化に伴いある嘘を修正する場合には、別の嘘と矛盾しないそれらしい嘘を新たにでっちあげねばならない。相手の人間関係や人格にも注意が必要だ。人は他言する。人間関係の濃淡や相手の口の軽重を見極め、いつどこで誰にどんな嘘をついたか正確に記憶しておくことが求められる。
どうやら嘘はとても高度な知的操作らしい。しかし、巧妙な嘘も市場の洗礼には耐え難い。利益を求めより早く確かな情報を掴もうと躍起になるプレーヤー同士が、それぞれの持つ情報や知識を総動員し、協力し反目し合いながらしのぎを削る激しい場。そこに流れた情報はすぐさま厳しい疑いの目で真偽をはかられ、「メイクセンスしない」となれば、瞬く間に淘汰される。網目の細かいふるいにかけられた情報から確からしさがぼんやりと立ち現れる。
(須藤)