第354回 (2026年7月8日)
幼稚園のころのことだ。滑り台の順番を待っていると、必ず列に割り込む一組の男の子と女の子。そんなことができる彼らが羨ましいような悔しいような。でも、言葉でも態度でも何もできなかった。何もできない自分が悲しかった。同じころ、幼稚園からの帰り道。小川の水草の陰にオタマジャクシの卵を見つけ、大喜びで幼稚園帽の中に掬い上げ、家に持ち帰った。翌朝、母親の叫び声で目を覚ます。卵の保管場所に好都合と洗濯槽にいれていたのだ。嬉々として持ち帰った卵の存在さえ忘れてしまっていたこと、母を驚かせてしまったことに茫然。言葉も口にできなかった。迂闊なのだ。大人たちは笑い話に変える。邪気がないからとか、やんちゃだからと。
これが正義感と罪悪感を味わった最も古い記憶だ。多分、多少塗り替えられているとは思うが。
あれからわたしはそんな悲しさや悔しさを克服できただろうか。多分できていない。何度、正義と罪悪の狭間を揺れ動いてきただろうか。でも、リムの仕事を通して少しだけそれらを解消する術を培ったかもしれない。記者の重要な仕事のひとつに取材がある。取材は人とのコミュニケーションの上に成り立つ。誰かの正義とそれを安易に受け入れられない罪悪感との間でぐらつくことがある。ただ、記者の仕事は様々な見解に耳を傾け、事実を見極めようとすること。この姿勢が、正義感と罪悪感のバランスをとるのに功を奏しているような気がする。
(もり)

